プロで小説を書いて、飯を喰っている以上は、拙書を購入してくれる読者の関心、好悪を、嘘でも意識せずにはいられません。
でも、その意識は、私が花園乱という筆名で官能小説を書いてきたからでしてね。
作品を書いている時に読者を意識するか?
エンタメ系作家と純文学系作家
官能作家は、読者の1人エッチのネタを提供するのが仕事の第一義!! シノゴノ理屈をコく前に、「濡れ場に感じてくれたか?」「ちゃんと勃起したか?」…… 読者の反応を意識せずに原稿を書くわけにはいきません。
官能のみならず、さまざまなエンタメ系の作家で、読者を(といいますか、自分の作品のファンの気持ちを)意識せずに仕事をしている先生は、おそらく1人もいないはずです。
ところが、これが純文学系の作家になると、事情が大きく変わります。純文学は、いわば小説創作の【純粋アート】だからです。アートならば、絵画や写真同様、創作するクリエーター自身の「想い」がすべて!! むしろ読者の側が、その「想い」に付いていけるかどうか? が大事。そういうシロモノです。
随分昔の話ですが、ある著名な純文学系の評論家が、若い作家志望の連中を前に、呑み屋の片隅で吠えておりました。
「諸君の書いた小説は、どれもこれも、読者の目ばっかり気にして、一行、一 行、『な?』『な?』と相づちを打ってやがるブツばっかりだ。いいかよく聞けよ、小説という文化はな、常に孤高の産物だ。誰の助けも借りられない。だからこそ、自分が書いたものを、『そう易々、貴様ごときに理解されてたまるか!!』ぐらいの、はなはだ不遜な気位(きぐらい)でもって書き上げるべきなんだよ」
この評論家に、同じ質問が出来ますかね(笑)?
スポンサーリンク
読者を意識するのは「まだ早い」?
どちらにしても、まだプロの作家になっていないアマチュア、もっというと小説を「これから書いてみたい」と思っているような皆さんなら、読者を意識する必要はないでしょう。というか、その意識は「まだ早い」ですね。
また、アマチュアのレベルですでにいくつも作品を書いている方で、今後プロを目指している皆さんも、ある作品で「何かの新人賞を狙っている」のなら、読者など意識して執筆するのは、やめた方が賢明です。
理由は? もうおわかりでしょうが、新人賞の審査というのは、前出の評論家のような御仁たちばかりで行われるからです。