世の中には、小説作法を説いた書物は、昔も今もたくさんあります。でも、どれひとつとして同じことの書かれたものはない。
小説の書き方に厳密なルールは存在するか?
厳密なルールは存在しないが、好き勝手に書いて良いというわけでもない
ということは、自動車教習所で学ぶ運転技術のような、「こうしなきゃいけない!!」という厳密なルールが存在しない、という証拠でしょう(笑)。
とはいうものの、
(じつは、ここからが大変ムズカシイ問題なのですが)
だからといって、ただ、めくらめっぽう「好き勝手に書いて良い」というわけでもないのです。
そこが、創作の、特に小説創作の一番厄介なところです。
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読める日本語になっていますか?
当たり前の理屈ですが、日本人が書く以上は、まず、どこの老若男女にも「読める日本語」になっていなければならなりません。「ふん、そんなの当然じゃねぇか」とムクれる方もおられるかもしれませんが、これが「当然じゃねぇ」んですね(苦笑)。
初心者の方の作品の中には、ちゃんと日本語で書かれながら、いったいぜんたい何が言いたいのか? まるで文章の内容が把握できない、つまり「読めない日本語」のブツが信じられないほど多く存在します。
どうしてそんな現象が起きてしまうのか? 簡単な話です。書き手自身が「読める」と信じている日本語が、そもそも、はなはだ独りよがりの表現になってしまっているからです。
どこの老若男女にも「読める日本語」で作品を書く。
それなりの鍛錬が必要
そのためには、自動車教習所で運転の技術を学ぶのに似た、「それなりの鍛錬」が必要です。
そして「それなりの鍛錬」は、「それなりの経験」のあるプロの作家なり編集者、評論家による指導のもとに行われなければ、意味がありません。
なぜなら、「厳密なルールはない」小説創作でありながら、それでも、やって「正しいこと」と「絶対に間違っていること」の違いだけは、明確に存在するからです。そしてその違いを、リアルに体得し、認知できているのは、私も含めた「プロ」と呼ばれる職種の連中だけです。
世の中には、カルチャースクールでもネットの有料サイトでも、「小説学校」とおぼしきものは、たくさんあります。「小説なんて、学校に通ってまで学ぶもんじゃない!!」と息巻く方々は、昔も今も大勢いらっしゃいます。
その理屈を決して否定はしませんが、ただただ好き勝手に作品を書きまくり、自分のHPなどにアップし、親しい友人たちの無責任な「いいね」ボタンだけを頼りに、有頂天になっているうちは、創作の上達など、とてもじゃないが望めない、とだけは明言しておきます。